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また、『日本書紀』が、手に茅纏の矛持ち天石窟の戸の前に立たして、巧みに作俳優すのくだりを、「天石窟の戸の前に立ってということではなくて、矛を持って舞い、そのうえで天石窟の戸の前に立てたものと理解すべきである」と解釈し、「それは本来、巫者のウズメの行儀ではなく、祭儀のはじめにおける司霊者グループの複数の男子による悪霊もしくは地霊しずめの採り物の舞であったものと考えられる」と結論している。
さらにまた、そもそも宮廷の鎮魂察は旧暦十一月の中の丑の日の園井韓神祭の翌日の中の寅の日、つまりその翌々日の中の卯の日の新嘗祭の前日に行われる点に注意しなければならないという。つまり、収穫祭である新嘗祭こそが最も眼目となる祭儀で、「新嘗の斉忌を阻害しようととりかかろうとする悪霊の類を祓禳することがなによりも大事とされるところであった」と、つまりこの鎮魂の祭儀を悪霊強制の祭儀と説明づけたのである(注?)。要するに岩田氏の考えとしては、当稿がテーマとしている荒事などの悪さをする訪れ神は託宣型に属するものであって、それ等のものの所為は、神楽(芸能)の始源なりとこれまで一般にみなされてきた、大石窟の前のウズメの所為とは別のものであるというもの。つまり悪さをする訪れ神に神楽の起源を求めることは適当ではないというものである。
果してそうなのであろうか?

 

●芸能の展開ともどき●

我が国の芸能史研究の創始者として折口信夫を挙げることは誰しも異論のないところであり、氏の論考を読んでみると、実際に常人では成し難い考察を展開したことに驚きを禁じ得ないのである。先述の岩田氏だって同様に考えていたと思われ、折口の鎮魂説には異論を唱えたものの、発言の場所によって色々異なる解釈を示してきた折口の諸論を丹念にひろいあげ、折口の論をもって折口を批判するという手のこんだ手続きをとったという(注?)。
折口の芸能への観察がきわめて実際に則したもので、大いに納得させられることの一つをここで紹介したい。それは芸能とは何か、その性格についての説明であるが、いわば演芸のようなものだと繰り返している点である。つまりそれは、漢語、万歳のような大衆的なものということであり、一見、本格的なもの、芸術性高い芸産は視野に入れていないかのような見解と思われる。しかし私は、同人はここで本格芸と演芸の差を問題にしていたのではなく、どうしようもなく芸能らしい点を言い当てようとしていたのだと思う。個人的な才能ある文士が家に閉じこもってものする文学作品とは違って、芸能の演じ手はいつも大衆の面前に身を露わし、一挙一投足に対する観客の反応に即座に対応して創り出してゆかねばならない。いわば林屋辰三郎氏などが指摘した座の芸術なのである。もちろん芸能の現前の過程で天才詩人にも劣らぬような詩情を瞬間的に編み出すことだってあり得るが、芸能の大方の性格としてとりあえずその大衆性に注目したということであろう。短歌をはじめ創作面でも才能を発揮した折口であればその綾目には充分通じていたはずである。
次にこの演芸性に関連しているのだが、何回も何回も同じことが繰り返し演じられてゆく芸能の副演出性についても重要な発言を重ねた。いわゆる“もどき”論につらなる考え方である。また、本歌取り式に同じテーマを時代を超えて繰り返すのも日本芸能の特色だとも言う。従来演じられてきたパターンの基本線を維持し、少しずつ様相の違ったものを創り出し繰り返してゆく姿は、能、歌舞伎、邦楽、邦舞の演目の中に同工異曲のものが結構見受けられることなどがその一例だろう。先述の演芸性と同様、この本歌取り式の特徴も演じ手・観客ともども何か即座に解かりあえる前提を必要とする芸能の芸能らしいところである。こういった副演出性を端的に象徴しているのが、“もどき”であろう。“もどき”はそういう役名のことであったり、曲名であったり、演じ方のことをさしたりする。この一文の冒頭部分で紹介した獅子舞に絡らむ道化役あたりが一般的に解りやすいその例であるが、そのほか芸能の色々な場面でこれが顔をのぞかせている。「菅原伝投手習鑑」

 

 

 

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